これはチキンレースなのか?
抗がん剤1クール目は吐き気との闘いでした。一晩吐いた後、水を飲んではまた吐き、何もせずとも吐き…
結局点滴に繋がれて1週間入院しました。
次は2週間後かぁ
これをあと4回。
医師からは副作用が強く出たので薬の量を減らすことを勧められました。
この時、私は悟りました。
"抗がん剤治療とはチキンレースでガンか私どちらが先に根を上げるか"だと
"どちらが崖のギリギリまでフルスロットルで車を走らせれるか"
私は薬の量を減らすのに躊躇しました。あんなに苦しい経験はもうしたくないし、そうなる事が分かっていて点滴針を体に刺すことに耐えれそうにありませんでした。
けど、そうすることで相手に負けるのではないかという考えが頭から離れませんでした。相手が横で走ってくれたらいいのに…
私の足はアクセルペダルから離れつつありました。
すると医師は私にこう言いました
「ヒコイチさん、ガンとの闘いは長期戦です。ヒコイチさんはまだ若い。根治のために薬の量を減らすのに抵抗があるのは分かりますが、残念ながら毎回これに耐えられるとは思えません。抗がん剤は継続する事が大事なのです。貴方の元気がないと家族も辛いですよ。」
そして、2クール目からは抗がん剤の量を少し減らし、吐き気留めを増やしてトライすることになりました。
2クール目以降も吐き気には苦しめられましたが、なんとか耐えることが出来ました。
何気に辛かったのが、冷たいものを触ると皮膚が痺れることです。
点滴して5日ほどは冷たい飲み物とアイスが食べれないのは辛かったです。
【追伸】
Yahooニュースでクワマンさんが大腸癌で、副作用に耐えれず抗がん剤治療を中止するという記事を見ました。
この苦しさは本人にしか分からないし、副作用の大きさも人それぞれなので、いろいろな選択肢があっていいと思います。
当時の私は少し極端な考えを持っていましたが、大事なのは本人の意思を尊重することです。
「なぜやらないのか?」
「やれば良かったのに」
これを言われると本人は酷く傷つきます。
クワマンさんが抗がん剤の苦しみから解放された分、充実した日々を送る事を願っています。
お互い生き延びましょう。
抗がん剤の副作用、自分は大丈夫だと思っていた。
私の大腸がんはステージ2のハイリスクと診断され、CAPOXという抗がん剤で術後の化学療法をすることになりました。
点滴と飲み薬という組み合わせでした。
3週間に1回点滴をし、それから2週間は飲み薬、残り1週間は何もなしというサイクルを4回行うというものでした。
最初の1回は副反応を確認する為に入院するよう言われましたが、2回目からは通院で対応する予定でした。
事前に抗がん剤の副作用について説明がありました。吐き気や手足の痺れ、脱毛など。
脱毛かぁ…
今までそれなりに良いシャンプーを使い、避けてきたわけですが、覚悟を決める時が来たようです。
それでも医師が言うには今回の抗がん剤は脱毛はし難いし、抗がん剤治療が終わればまた生えてくるとのこと。信じて良いのか…
俺の毛根よ耐えてくれ!
それと精子凍結をしていました。
これはもし抗がん剤の影響で生殖機能になんらかの障害が出た時のリスクを考えて、医者からも勧められました。もう少し早く子作りをしていればなぁと少し後悔しています。
ガンがわかる前の妊娠と分かってからの妊娠は別物です。生まれてくる子のことを考えた時にどちらが幸せなのか、しかも隣に父親がいないとしたら…わざわざそのような状況に子供を追いやる親が何処にいるんだと…
今も病院には私の精子が眠っています。
そして抗がん剤の1クール目が始まりました。
昼から始めると言われたので余裕でコンビニで買った麻婆丼とか食ってから病室に戻りました。
いざ始まると血管が痛い、、、点滴が流れてるところなんだろう。。。
あと、冷たいものを持つと手先が痛い。
でも身動き取れない以外はそれほど体調に変化はないかな。
やれるやれる。
これなら仕事しながらでもできたかな?
自分の代わりに忙しく働いている同僚を思いながら、少し申し訳ない気持ちでしたが、「代わって欲しいか?」と聞かれると全員首を横に振るのは分かっているので有り難くこの事実を受け入れました。
しかしこの夜、麻婆丼を全て嘔吐し、水すら受け付けない体になるのでした。
腹腔鏡手術は体への負担が少ないとはいえ
それなりに痛いです。
そりゃ体を切ってる訳ですから。
目覚めるとお腹に5個の穴が空いていました。
手術の晩はICUで過ごしました。
翌日から一般病棟に戻りましたが、咳をするとお腹が痛いこと以外は普通に過ごせました。
花粉症じゃなくて本当に良かったと思います。
いかに咳をしないか、全集中して過ごしていました。
二、三日経つと歩いてくださいと言われ、痛みを我慢しながら病棟を歩いていました。
どうやら術後の大腸の癒着を防ぐためには体を動かすのが良いのだとか。
癒着が酷いと腸閉塞とかになるよとビビらされ、少しでも歩くように努力しました。
じっとしていると腸が壁に張り付いていくような恐怖を感じていました。
I 0日ほどで退院しましたが、病院での生活は退屈でした。離乳食のような食事、笑えない腹筋、Wi-Fiのない病室とかさむ通信料。
退院後も試練は続き、何も知らない我が娘3歳は寝相が悪く、何度も傷口を蹴られました。
その度に悶絶し、娘を叱ろうかと思いましたが、寝顔を見るとそんな事もできず、黙って目を瞑るのでした。
しばらくして病院から摘出したガン細胞の検査結果を聞きに行きました。
結果はかろうじてステージ2…
私のガンは腸の壁をギリギリ破ることなく、リンパ節への転移はありませんでした。
ただし、付近の血管にガン細胞が確認されました。
ステージ2のハイリスク。
本来、ステージ2なら術後の抗がん剤治療はしないのですが、医師からは抗がん剤治療を勧められました。
これは血管にのって他臓器への転移のリスクがあるからです。
ただし抗がん剤治療の期間は4クールで良いんだと…
それ以上やっても大きな効果はないと言われました。さらに予防的に使う抗がん剤の効果は2割ぐらいの人にしか効果はないらしい。
やらないという選択肢もある。
辛い副作用に苦しんで、自分に効果が出るか分からない抗がん剤を試すよりも今まで通りの生活を選ぶ…自分が70歳ならそうしたかもしれない。
けど私は35歳であり大切な家族いて、娘のこれからをまだ見ていたいのです。その可能性を少しでも上げることが出来るなら何でもやろうと思いました。
だから4クールぐらい余裕だなと思えました。
この時は…
ガンの進行度は事前に分からない
帰国後二週間の自主隔離終え、病院で診察を受けました。
ガンを体に残したまま過ごす二週間はすごくもどかしかったのを覚えています。
結局、日本でも再検査をすることになり
改めて大腸がんの診断が下りました。
それでも日本語で説明してくれるのはめちゃくちゃありがたい。
いくつか分かったことがあります。
早期発見だと思っていたガンは実際には進行が進んでいてステージ2以上であること。
S状結腸癌という病名であること。
手術は腹腔鏡手術で出来ること。
お腹に小さな穴が5箇所空くが、一週間ほどで退院できること。
20センチ程大腸が短くなるが、すぐに機能は元に戻ること。
摘出した細胞を検査しないと進行度が分からないこと。
ステージ3以上なら術後の化学療法(抗がん剤治療)が必要になること。
ガンの進行度が分からないのがすごく不安でした。もしリンパ節へ転移があったらどうしようとか。ステージごとの生存率を調べたり。
この頃、トミーズの雅さんも大腸がんだった事を公表されていました。復帰されテレビで楽しそうに話をしているのが羨ましかったです。
自分ももう少し早ければああなってたんかな…
手術日が決まり、近づくにつれて期待と不安が膨らんでいきました。
早く終わらせたい気持ちと結果を知りたくない気持ちが私の中で戦っていました。
結局引き分けのまま手術日を迎え、BGMに医龍のテーマが流れる中、私は麻酔で眠りにつくのでした。
手術の延期、そして帰国
アメリカで2回目の手術延期が決まってすぐ、日本への帰国を決めました。
日本への帰国の許可をもらうために会社の重役に連絡しました。
ガンが発覚してから社長や重役にはいろいろと相談に乗ってもらっていたので、すぐに帰国の許可をもらうことができました。
次に飛行機の予約を取るために旅行会社に連絡を取りましたが…
「コロナの為、日本行きの便は羽田空港着しかありません。」
実家の関西へ戻りたいのですが、どうやらコロナによる減便で関空直通が無くなったと…
日本入国後は2週間隔離後でないと公共の交通機関は使えないし、どうすんねんこれ…
残された手段は羽田空港に飛んで、近くのホテルで2週間隔離後、関空へ飛ぶパターン。
2週間ホテルで隔離とホンマ嫌や…
しかもホテル代どないなんの?
そやけどすぐに航空券を押さえないとさらに減便で帰れなくなるんちゃうの…
そんな不安でいっぱいでした。
そこに旅行会社から電話…
「来週からロス→関空便が週一便で運行再開するようです!」
助かった!!
普段ならダラス経由で帰国するので、ロス経由は不安もあったのですが、ほかに手はないのですぐに航空券の手配をお願いしました。
初めてのロサンゼルス…
もっと違う形で訪れたかった
写真はロサンゼルスの空港の様子
お店はほとんど閉まってました。
普段ならもっと人が多いんだろうなぁ…
ガンと闘う前に -2020年3月-
異国の地でガン宣告されて、ガンと闘う前に強力な敵が現れました。
コロナウイルスです。
2020年の3月でした。大腸がんの手術をする日程を担当医と決めましたが、その頃には私の住んでいたサウスカロライナでもコロナが拡大していました。
手術日が近づくにつれて増えるコロナ患者…
マスクをつける習慣がなかった住民も徐々にマスクを着けるようになり、町中からマスクとサニタイザーが無くなりました。
そして、手術の延期が決まりました。
妻は泣いていました。
私は何も出来ませんでした。
日本の両親にはガンのことは黙っていました。心配かけたくなかったのと、すぐ手術で除去出来ると思っていたので
その間にも蔓延するコロナウイルス…
また延期になるんじゃないかという不安…
妻も1人で抱えきれなくなり、私の両親に連絡することになりました。
相談できる相手ができて妻は少し安心して様子でした。
今思えばもっと早く両親に説明すべきだったと思います。妻は誰にも相談できずに苦しかったはずです。
私は自分のことでありながら、あまり先のことを考えないようにしていましたが、妻はずっと私の事を考えてくれていました。
それから少しずつ妻は元気を取り戻していきました。
その時、病院から連絡があり、二度目の手術延期が告げられました…
ガンは英語で?
アメリカでの生活はとても楽しく、色々と書きたいこともあるのですが、また時間のある時に。
そんなこんなで一年があっという間に過ぎました。となるとやってるくのが健康診断です。
うちの会社では年一回の健康診断を目的とした一時帰国が認められています。会社がお金を出してくれます。駐在員は好きなタイミングで健康診断の計画を立てます。私は11月にしました。日本にいる間に両親と温泉旅行に行く予定も立てました。城崎温泉だったかな?
近くの綺麗なクリニックを探して検査診断を受けました。平日なのに多くの人が来ていたので、人気のクリニックなんだろうと思います。レストランも併設しており、検査後に割引きチケットを貰いました。野菜のカレーがおすすめのようでしたが、迷わず王将に向かいました。
一時帰国中の飯は一食も無駄には出来ないのです。
一週間ほど経って診断結果が送られてきました。
今回の健康診断でも便潜血が見つかりました。
今回は家族で一緒に健康診断に行ったので、妻にも結果はバレてしまいました。
どうせ痔か何かだろうと、また放置しようとする私に妻はしつこく精密検査を進めてきました。ケンカになるぐらいです。
妻があまりにしつこいので、アメリカに戻ってから近くの病院で内視鏡検査を受ける予約をしました。恥ずかしさもあり、日本人にされるよりマシかなとも思いましたが、メチャクチャされそうで怖かったです(笑)
その頃には日常会話レベルなら英語は聞き取れるようになってましたが、医療用語はちんぷんかんなので電話通訳を駆使しながら医師の説明を受けました。
検査結果を聞きに行くと電話通訳を準備する前に医師が話し始めてしまいました。慌てて準備していると、"cancer"という単語が聞こえてきました。
cancerの意味なら知っていましたが、何か別の意味があるのでは…としばらく聞き返すことはしませんでした。